チャシコツ岬上遺跡〜タンネウシコラム1月号

チャシコツ岬上遺跡

平河内毅

上空から見たチャシコツ岬上遺跡

全国には約46万8千箇所以上の遺跡が存在し、その中でも学術上価値の高いものは文部科学大臣から国史跡に指定されます。その1つとして、斜里のチャシコツ岬上遺跡が指定されることとなりました。

オホーツク文化〜トビニタイ文化の時期の遺跡としては全国で初めての指定であり、町の誇りとして、これから先も保護されることが期待されます。では、チャシコツ岬上遺跡の何が重要と認められたのでしょうか。

オホーツク文化の変遷を伝える

チャシコツ岬上遺跡は今から約1,200年以上前に営まれたオホーツク文化の集落跡です。オホーツク文化とは、5–13世紀ごろ北海道、サハリン、千島列島などのオホーツク海沿岸に広く分布した古代文化のことで、北海道東部では9世紀頃に変容し、トビニタイ文化へと移行します。このあたりの話は複雑なので、ひとまず、北海道のオホーツク文化は9世紀頃に終焉を迎え、チャシコツ岬上遺跡がちょうど9世紀頃の集落跡だと覚えておいてください。この遺跡では、31軒の竪穴住居跡のほか、墓、廃棄場、配石遺構などの各種遺構がそろって発見され、網走のモヨロ貝塚のような地域の拠点となる機能を持った集落であることがわかっています。しかも、31軒という竪穴数は北海道のオホーツク文化で2番目に規模が大きく、それが切り立った崖の上にあるというから驚きです。さらに集落の内容を調査してゆくと、住居の小型化や、動物儀礼の変化など、オホーツク文化の終末に向かって暮らしぶりが変遷ゆく様子が確認されました。このような今まで不明確だった部分が次々と明らかになり、オホーツク文化の全体像を知る上で欠かせない遺跡の1つと認められたというわけです。

古代日本との交流?

また、遺跡の位置づけに大きく関わる、ある幸運にも恵まれました。それは本州の古代律令国家で流通した貨幣、神功開寳の発見です。近い時期の貨幣が千歳や恵庭から見つかることから、道内の隣接集団(擦文文化)を介して、本州から知床まで渡ってきたと考えられており、オホーツク文化での発見例はこの1枚のみです。ちょうど、交流の相手が大陸から本州へと切り替わる時期にチャシコツ岬上遺跡の利用が始まるので、崖の上に暮らし、異文化集団と一定の距離を保ちながら、海を舞台に生活を続けていたのでしょう。このように、チャシコツ岬上遺跡はオホーツク文化の変遷を今に伝え、古代日本周辺の地域文化がいかに多様であったのかを知ることができる重要な遺跡なのです。

タンネウシ1月号表面
タンネウシ1月号裏面

平河内

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