朱円の桜園〜タンネウシ5月号

阿部公男

満開時の朱円のエゾヤマザクラの様子(2021年5月撮影)

桜園の始まり
 斜里町での朱円小学校の歴史は古く、明治33年、斜里町農業の祖と云われる鈴木養太が児童数33人で簡易教育所として開設したことにはじまります。明治42年には児童数が100名を超え、さらに、大正5年には朱円尋常小学校となりました。大正10年頃には児童数が300人を超えていたことが記され、開拓による移住が当時盛んであったことが窺えます。そのような中、春先のフェーン現象によって斜里岳から吹き降ろされる「馬糞風」から大切な校舎と子供たちの学びを守るため、校舎南側にあったグラウンドを北側に移設してグラウンド跡に植樹を行う計画が持ち上がりました。グラウンドの跡地には、保護者の協力と児童の作業により砂埃を抑えるためにクローバーなどの播き付けを行いましたが上手くいかず、「一坪一本の植樹」を地域の方に呼びかけて林園づくりをスタートさせました。林園での植樹を進める過程では「花見のできる学校に」「管内の有名校に」、また朱円は岐阜県出身者が多いことから「長良川上流の桜の名所のように」など、地域の方々の思いと目標を汲みいれて、大正15年に桜の植樹が始まり、96年の時を経て現在の桜の名所(朱円小桜園)となりました。

桜の衰退と管理
 96年間に及び多くの人々を癒してきた朱円小学校前庭に植えられた桜の多くは現在どんどん衰退しています。朱円で多く見られるエゾヤマザクラの寿命は70年から90年といわれていますが、もうすぐ100年を数える桜園は古木化や病害虫の被害が顕著となり、被害の蔓延を抜本的に解決すべき状況だといわれています。また、園は周囲を桜以外の高木が囲み、稚樹が定着し成長するために必要な太陽光が十分に届いていない状況です。このように畑地の中の孤立した環境下にある桜園では天然更新が難しいなど、課題も多くあります。

多様な桜園の今を見に来てください
 厳しい状態の中でも倒れた古木を礎に、倒木や切り株の上で土壌菌や笹などの雑草を避けるようにして育とうとする次世代の稚樹の逞しさや、害虫や病気、風雪に傷んだ老木が健気に咲かせる花の艶やかさなど、いつもとは違う視点での観覧も見応えがあります。そろそろ知床も桜の季節です。是非、朱円の桜を観覧していただきたいと思います。

タンネウシ2022年5月号表面
タンネウシ2022年5月号裏面

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