斜里の石碑「社日碑」のお話〜タンネウシ1月号
三枝 大悟
「社日」ってなんだ?
「社日」という言葉を聞いたことはありますか?これは、地神(土地の神様)をお祭りする日のことで、一年に2回、春分と秋分にそれぞれ最も近い戊の日を指します。石碑に宿る神様に対し、農作物の豊作を祈ったり、収穫を感謝することから、農家さんにとって身近な存在で、JAしれとこ斜里のカレンダーにはその日がバッチリ示されています。ちょっと季節外れではありますが、斜里の「社日碑」28基(現存しないものを含む)を調べてわかってきたことをご紹介します。
社日碑のカタチ
社日に土地の神様を祀る風習は、古くは中国から日本に伝わり、四国周辺をはじめ各地に深く浸透した後、北海道にも開拓とともに広がりました。碑の形は、18世紀に著された「神仙霊章春秋社日醮儀(しんせんれいしょうしゅんじゅうしゃにちしょうぎ)」に五角柱の石碑に5柱の神名(神様の名)を刻むよう記されましたが、開拓当初は石材加工のハードルが高かったようで、木柱の碑も見られました【写真1】。五角柱スタイルの石碑は川上と豊倉にありますが【写真2】、細かい部分には「〜醮儀」と異なる点も見られます。神名で最もポピュラーなのは「天照皇大神」で、三井には薄い板のように加工した石にこの名だけが刻まれた碑が3基あります。
一方、圧倒的に多いのが、神名ではなく「社日神社」と刻まれた碑です。尖ったものや丸っこいもの、四角柱やコンクリートで成形されたものまで、多様なカタチの碑が16基現存します。昭和初期に道内の社日碑を調査した小林巳智次(こばやしみちじ)氏(北大名誉教授)は、各地の社日碑の碑文を挙げる中で、斜里で「社日神社」碑を見つけたことに触れ、各地からの移住者が、地神を祀る四国地方出身者に感化され、同じく農業を営む中で祭日の名を碑に刻むようになったのだと推定しました。小林氏は別の著作でも「社日神社」の碑文を「異例」と評しています。他地域の事例や、碑を建立した人々のルーツを調べることで、斜里の社日碑のオリジナリティが見えてくるかもしれません。
建立の時代、そして現代へ
現存し、建立年がわかる社日碑のうち、最も古いのは、1924(大正13)年10月建立の三井第五班「天照皇大神」碑です【写真3】。ただ、翌年に以久科北の西1線5号下に建立された「社日神社」碑は【写真4】、1913(大正2)年に祀られた碑が焼失した後で再建されたものとされ、祀られた時期でいえばこちらが最長老です。一方、最新の碑は来運の「社日」碑で、1988(昭和63)年に新たに建立されました【写真5】。こちらも信仰の歴史はより長いですが、碑としては35歳。まだまだフレッシュです。
今なお篤く信仰される社日碑ですが、道路の拡張や継承者不足などから、移動や消失することがまれにあります。また、碑文は時とともに薄れ、読みにくくなります。しかし、一見同じように見える石碑にも、さまざまなカタチがあり、お祭りの在り方も地域によって異なります(春秋のうち春だけお祭りをする[三井の一地区・20年ほど前のこと]、馬頭観音など他の碑と一緒に祀る[ウトロ高原]、昔は子ども相撲があった[朱円ほか]、など)。それは人々の大切な思い出となり、地域の個性・特性に繋がっているはずです。博物館では、引き続き町内の石碑を調査し、地域の歴史資料として大切に記録していきます。
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