斜里の戦争資料〜タンネウシ11月号2025

三枝 大悟
戦後80年の取組みから
1945(昭和20)年8月15日に第二次世界大戦の終戦を迎えてから、今年で80年が経ちました。全国の博物館では、戦前から戦後にかけての生活を振り返る企画展や講座を開催しており、知床博物館でも「収蔵資料展示戦後 80年企画」や葦の芸術原野祭会場での移動展「モノが語る戦争と斜里」で斜里の戦争資料を紹介しました。これらの企画の準備の中で見えてきた、町内の戦争資料についてお話しします。
なんで少ない?知床博物館の戦争資料
博物館の戦争資料を見てみると、軍服などのいわば「量産品」は複数ある反面、金属供出や物不足の時代を語る代用品などは少なく、全国各地で今も遺されている千人針(弾丸よけのお守り)や出征兵士を見送る際の旗は1点ずつしか所蔵していません。数万点を数える民俗資料の中、その少なさに驚かされました。
振り返ってみると、『斜里町史』第1巻の戦争についての記述は限られ(全939ページ中、「太平洋戦争と斜里町」は13ページ)、博物館の常設展示にも戦争資料コーナーはありません。その理由は定かではありませんが、斜里が大きな戦災を受けなかったことが挙げられると思います。 道東各地が広く被害を受けた 1945年7月の空襲では、斜里川の鉄道橋 が爆撃されましたが、幸い死者はなかったようです。地元で多くの死傷者が出なかったことが、町の歴史を語るうえでの戦争の存在感に繋がっているのではないでしょうか。
しかし、斜里が戦争と無関係だったわけではありません。明治時代の日露戦争以来、多くの町民が兵士として前線に送り込まれ、300人以上が帰らぬ人となりました。また、地元では物不足・人手不足の苦しみが続きました。これらの事実は、斜里神社境内にある忠魂碑(戦没者を供養するための石碑)や、聞取り集 『語り継ぐ女の歴史』に刻まれています。
地域に残るモノ
普段見慣れた風景の中にも、戦争の痕跡があります。根北峠に続く森の中、急に現れるアーチ橋「旧国鉄根北線越川橋梁」は、戦争に向けた物資輸送のために建造されました(その後結局、使われないまま今に至ります)。来運神社には、地元の男性が息子の出征を記念して奉納した鈴が今も吊り下げられています。旧以久科小学校の校庭にある建物の基礎のようなものは、刻まれた人名から、奉安殿(天皇の写真を安置した祠のような建物)の名残だとわかりました。博物館の北側では、コンクリート製の建造物が見つかり、トーチカ(監視・狙撃用の小型防御陣地)の可能性が高いと見て調査を進めています。
戦時下を経験した世代から、直接お話を聞くことが難しい時代になりつつあります。戦後80年の取組みは、遺されたものを把握し、その意味を考え、未来に伝えていかねばならないと、あらためて実感する機会になりました。

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