新しくなりました!津軽藩士殉難事件史跡の標柱と看板〜タンネウシ1月号2025
三枝 大悟
津軽藩士ゆかりの3つの史跡
令和 6(2024)年11月30日、町内の3つのスポットに新しい石碑(標柱)と看板が建ちました。どれも市街地の中にある、「 津軽藩シャリ陣屋跡」、「津軽藩士墓所跡」、「シャリ運上屋(会所)跡」の3ヶ所で、陣屋と墓所はその名のとおり、1807(文化4)年に斜里にやって来た津軽藩士に直接関係するものです。残る運上屋(会所)は、和人とアイヌの交易拠点として設けられた施設ですが、やがて地域行政の拠点となり、津軽藩士たちも斜里での指示を仰ぐため何度も訪れました。津軽藩士で繋がるこれらの場所は、1987(昭和62)年、町の史跡として指定されました。
史跡指定に込められた想い
これらの史跡は、当初位置がはっきりしていませんでしたが、斜里町郷土史研究会の会員をはじめとする人々が古い記録から推定しました。
史跡の指定に繋がった公文書で、 斜里町文化財調査委員会が1987年6月に町教育長に提出した「『町指定史跡』候補について答申」には、同年が「津軽藩士が殉難(文化4年1807)して180周年と(三枝補足:弘前市との)友好都市盟約5周年等々記念すべき年」にあたるとし、「史跡と云っても建造物及びその形跡のないこと」ことを懸念しつつも指定されることを求め 、さらに「 慰霊祭の開催日が7月16日と予定されていますので可能であれば、その前に指定下さるようお取りはからい願いたい」と強調しています。また、当時から標柱と看板を設置する想定がなされていました(以上、「 」内は答申書からの引用)。
答申書で述べられた内容はまもなく実現し、7月1日付けで史跡の指定がなされ、それぞれにイチイ製の標柱と金属製の看板が設けられました(墓所跡は標柱のみの設置で看板はなし)。史跡の指定は 、弘前との友好の絆をさらに強めようという想いのもと進められたのです。
37年を経ての標柱・看板の更新
設置以来、地元の人々や歴史ファン、観光客らを迎えて来た標柱は、37年の月日を経てボロボロになってしまいました。看板はその間に一度建て替えられましたが、潮風を受けて錆だらけになってしまいました。
斜里と弘前のどちらにとっても意義深い史跡を、より魅力的にアピールし、いつまでも大切にし続けるために、土地所有者・津軽藩士殉難慰霊碑を守る会の協力と、看板・石碑の専門業者のアドバイスをいただいて検討した結果、標柱は頑丈な黒御影石製に、モノクロで文字だけだった看板は、カラーで写真付きに、そして錆に強いのものになりました。さらに、知床博物館の展示ガイドとして活用しているアプリ「ポケット学芸員」にも「斜里町津軽藩士関係文化財」のページを追加し、津軽藩士殉難慰霊の碑や関連する文化財、ねぷたなど町の情報にも触れられるようになりました。
雪が融け、春が来たら、お色直しした史跡をぜひ巡ってみてください。
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