意外と謎な?斜里で暮らした会津藩士〜タンネウシ10月号2024
三枝 大悟
斜里で藩士といえば…
しれとこ斜里ねぷたが地域に根付いて40年余りが経った今、斜里町民にとって津軽藩士はとても身近な存在です。しかし、津軽藩士が斜里に駐屯したのは1807(文化4)年から1808(文化5)年のわずか1年間であるのに対し、1859(安政6)年から1868(明治元)年までの約9年間を斜里で過ごした人々がいます。それこそが今回取り上げる会津藩士です。
会津藩士は何をしたのか
ロシアの南下に対する警備にあたった津軽藩士が斜里の地を去って半世紀後、外国に対し箱館を開いた江戸幕府は、再び東北諸藩に北方警備を命じます。会津藩は標津に元陣屋(本部)を置き、斜里と紋別に出張陣屋(支部)を設けて警備に当たりました。野付半島や紋別には、駐屯中に亡くなった会津藩士の墓が今も残っています。しかし、斜里の地で会津藩士がどのようなことをしたのかはほとんどわかっていません。明治時代に開拓大判官の松本十郎や、お雇い外国人の地質学者ライマンが、過去の記録から会津藩士が知床硫黄山の採掘や金鉱の調査を行ったことを述べており、これが数少な い彼らの事跡となっています。
1955(昭和30)年に発行された『斜里町史』は、「この間事件がなかつたためもあつて資料が乏しく、消息を明らかにすることが出来ない」と記しました。津軽藩士殉難事件のインパクトがあまりに大きいこともあってか、その後も斜里での会津藩士に関する研究は進んでおらず、陣屋の跡地も解明されていません。
謎は深いまま…
だが、手がかりはある?
7月28日、仙台藩の元陣屋が置かれた白老町でシンポジウム「全道陣屋跡の現場と課題」が開催され、斜里を含む14か所の陣屋跡所在市町から研究者や担当者が集まりました。会津藩士による北方警備の本拠地・標津町からは、会津藩関係資料が少ない理由について、幕末の動乱で本国が混乱の極みに陥っていたことが指摘されました。斜里の陣屋に関する資料も同様の状況にあるかもしれません。また、斜里と同じく会津藩の出張陣屋が置かれた紋別では、アイヌと和人の交易拠点である会所のそば、海際に陣屋が置かれたことが報告されました。斜里では半世紀前の津軽藩陣屋が、会所から徒歩圏内の海際に建てられています。全く同じ場所かは定かでありませんが、会津藩陣屋も似たような場所にあった可能性はあります。
シンポジウムでは全道の事例から、「陣屋」と一口にいっても、立地や人員配置、資料の残存状況など、そのあり方は実に多様であることがわかりました。各地域では当たり前に語られてきたことかもしれませんが、それぞれの事情が共有されたことに大きな意義があるように感じます。謎に包まれた斜里の会津藩士の歴史も、他の地域と比べたり、参考にしたりすることで、いずれ少しずつ明らかになっていくかもしれません。
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