斜里町の歴史と緊急発掘調査の歴史〜タンネウシコラム2月号

斜里町の歴史と緊急発掘調査の歴史

松田功

オンネベツ川西側台地遺跡の調査風景(1990年7月撮影)

 

知床博物館では数多くの遺跡を確認する調査(分布調査・発掘調査など)を行ってきました。その結果、斜里町内の遺跡登載数は、380箇所(2019年2月現在)となっています。現在、道内で最多の遺跡登載数は札幌市の541箇所で、2位は北見市の480箇所、3位が斜里町となっています。しかし、斜里町には未調査区域がたくさん残っています。今後現遺跡の範囲の見直しと、未調査区域での計画的な分布調査を実施することで近い将来斜里町が道内1位になるかもしれません。発掘調査は大きく2つに分かれます。ひとつは、研究テーマを決めて大学等が行う学術発掘です。もうひとつは、今回の話の主題となる緊急発掘で、工事等で遺跡が破壊されてしまう前に、記録を残すことを目的に行う発掘調査のことです。斜里町の緊急発掘の歴史は、国道建設などの道路開発工事から始まります。オシンコシンの滝の斜里市街地側、オペケプ川右岸のチプスケ遺跡の発掘調査が昭和34(1959)年に行われています。これは斜里町教育委員会(以下、町教委)が実施したのではなく、北海道教育大学の田沢巌先生らが担当されたものでした。町教委が最初に実施したものは、昭和45(1970)年の砂利採取に伴う発掘で、西町にあった小高い砂丘上に集落を残していたピラガ丘遺跡でした。今では砂利採取工事により、この砂丘の姿形は残っていません。発掘担当者は網走郷土博物館の米村哲英さんでした。町の郷土史研究会のメンバーなども参加しています。この時を境に砂利採取や道路工事、農業関連の協議が増え、必然的に発掘調査も増えていきました。一年に数箇所も並行しながら発掘調査をすることが増えたのは、ダムからの配水計画が本格化し始める国営畑総事業や道営畑総事業が増える平成8(1996)年以降となります。ちょうどこの時が発掘調査のピークとも言えます。これら斜里町が実施してきた緊急発掘について地域ごとにまとめると、大栄地区で6箇所、美咲と西町、港西町で合わせて6箇所、川上と来運地区で3箇所、以久科両地区で4箇所、朱円全地区で21箇所、峰浜と日の出地区で14箇所、オタモイからウトロ、幌別地区をまとめて8箇所の総計63箇所でした。緊急発掘のExcelファイルは下のQRコードからダウンロードできます。 その後の斜里町の埋蔵文化財行政がどのように変化していったのかは次回のタンネウシで書くこととします。

リンク:表-斜里町内の緊急調査箇所一覧(Excel)

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平河内

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