交通・輸送手段の変遷 〜タンネウシ12月号

村田良介

斜里町は、斜里川河口付近の市街地を中心に明治・大正・昭和・平成と発展を続けてきました。これらを支えた交通や輸送手段の変化を振り返ります。

海路
斜里に根室-網走間の定期船が寄港するのは明治30年代からですが大正時代には木材や農産物の好景気を背景に海運が全盛を迎えました。ところが大正14年に釧網線が開通してからの主役は陸路に変わります。ただし道路整備が遅れたウトロでは昭和33年まで網走との間に定期航路が残っていました。

明治時代までの主な交通路は船や海岸の砂丘でした。明治維新の約60年前に津軽藩士は稚内から海岸線を歩いて斜里に到達し、帰路は船を利用しています。

陸路
江戸時代からの砂丘の道は後に根室街道と呼ばれます。一方で湿地が広がっていた内陸側は長く人馬の通行を阻んできましたが、現在の藤苑前の交差点から以久科に至る「斜線道路」が大正期に整備されてからは砂丘を迂回しないで物資を運べるようになりました。同交差点から朱円市街地に至る「3号道路(国道334号)」も昭和に入ってから本格的に整備されたものです。

この頃の街道沿いには明治初年から昭和4年まで斜里駅逓、明治28年から昭和16年まで越川駅逓、大正8年から昭和22年まで宇登呂駅逓などが設置されていました。

道路
斜里平野の整然とした区画は明治22年の植民区画が基本です。この区画に従って開墾されましたが湿地帯に道路を造ることは容易ではありません。その多くは「冷害救済」等の公共事業として地域の人の手で進められたのでした。

鉄道とバス
大正14年の鉄道開通によって海運の時代は終わりを迎えます。昭和7年には知布泊まで殖民軌道が敷設され、「3号道路」の整備と併せて市街地から朱円以東への交通・輸送路が拡充されました。さらに昭和32年には根北線が越川まで開通しています。斜里と宇登呂間に定期バスが走るのは道路開通後の昭和33年からです。しかし、昭和の後半から平成時代に入ると産業構造の変化や道路整備、さらには人口減少によって鉄道やバスの時代に陰りが見え始めます。

斜里の交通や輸送は海から始まりましたが、その後に陸上の馬車や鉄道に変わり、さらに車へと主役が移っていったのです。


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タンネウシ12月号裏面

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