人の繋がりが歴史を紐解く〜津軽藩士の殉難事件〜タンネウシ7月号2024

村田 良介
津軽藩士の殉難事件

200 年以上前の江戸後期 (1807 ~ 08) に幕府の命を受けて斜里に駐屯した津軽藩士100 名のうち、準備時間の不足、栄養不良、厳しい越冬生活などから翌春までに 72 名が亡くなるという惨事は「津軽藩士殉難事件」として多くの皆さんがご存じと思います。これらの史実が明らかにされて斜里町に慰霊碑が建立され、その縁から弘前市と斜里町が昭和58 (1983) 年に友好都市盟約を結び、さらに、ねぷた運行が始まっていきましたが、この背景には歴史を紐解いていった人の繋がりがあったのです。

神田(古本屋)から禅龍寺へ
 最初の繋がりは、昭和28(1954) 年に北海道大学の高倉新一郎さんが東京・神田の古本屋で「松前詰合日記」を発見し、「友人」で斜里町史編纂中だった郷土史家・更科源蔵さんにそれを伝えたことです。日記は藩士の斉藤勝利が津軽出発から帰着までを克明に記したもので、この惨事の外部への流出を恐れたのか「此壱冊は他見無用 永く子孫に伝え」と但し書きがありです。この内容は、町内・禅龍寺に残され昭和28 (1953)年に門田孝道住職によって「発見」されていた津軽藩士の過去帳「シャリ場所死亡人控」とも符合したのです。さらに、文化9(1812) 年7月に建立され日照寺境内にある「南無妙法蓮華経」と、同じ形で砂に埋もれて発見された「南無阿弥陀仏」 の供養碑 ( 現在は慰霊碑隣に設置 ) も津軽藩士を弔うものであることが明らかにされていきました。

斜里から弘前へ
 昭和40年代になって、斜里町郷土史研究会の高桑華夷治さん、栗沢喜重郎さん、日置順正さん、今喜多一さん、小泉昇さん、金盛典夫学芸員などの調査によってそれまで点として扱われていた史実が線で繋がるようになり全体像が明らかになっていったのです。
昭和48(1973)年7月には津軽家14代当主の津軽義孝さんや藩士の子孫を招いて慰霊碑の除幕式と第1回の慰霊祭が行われました。弘前市では、郷土史研究会の人たちの熱心な働きかけに応じた陸奥史談会による調査によって、藩士の子孫探しや弘前市・法立寺の斉藤勝利の墓の確認をとおして八王子市在住だった子孫にも辿りつきました。さらに東奥日報社による記事掲載や楠美鐵二さんの 35回にわたる連載記事「斜里に消ゆ」などをとおして繋がりが広まっていきました。

慰霊碑からねぷた運行へ
津軽藩士の殉難は郷土史研究会の皆さんの調査や人の繋がりによって 歴史として明らかにされて いったのです。今年は7月19日(金)に慰霊祭が執り行われ、その夜には斜里ねぷたが運行されます。藩士の慰霊に加えて、歴史をひも解いていった先輩たちの篤い志に思いを馳せながら参列いただければ幸いです。

 

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