三浦詔男さんのこと…〜タンネウシ5月号

村田良介

左上/慰霊祭での開会の辞 左下/ほろ酔いダベリングでの司会 中央/ねぷた出陣式での挨拶 右/ありし日の笑顔

追悼 
3月12日に知床博物館協力会副会長の三浦詔男さんが亡くなられました。
  三浦さんには平成13年から博物館協力会の副会長として博物館活動を支えていただきました。また、津軽藩士殉難慰霊碑を守る会の副会長としても慰霊祭や弘前市との交流をとおして博物館とも深いつながりがありました。

 三浦さんは家業である印刷業のかたわら文化活動に造詣が深く、斜里町文化連盟の副会長を長く務められ、その間に昭和61年には文化連盟20周年の「1500人のウィアーザーワールド」の町民大合唱 、昭和 6 2 年 からの「 ほろ酔いダベリング」、町民文化祭や平成10年のゆめホール知床の建設事業など、数多の活動の中心的な役割を担ってこられました。近年は知床ユネスコ協会の副会長 としても羅臼町との交流や子供たちの教育活動にも関わっておられました。
 また、昭和47年に商工会青年部を母体に発足した知床流氷太鼓の設立メンバーの一人であり、その後もねぷた保存会太鼓部会長を経て平成22年からはねぷた保存会会長としてねぷたの運行を先頭に立って率いてこられました。 一方で、図書館運営委員や社会教育委員も歴任されて斜里町の社会教育活動の発展に大きな足跡を残されています。

 私が三浦さんとお会いしたのは就職して間もない昭和55年だったはずです。 私には難解だった「詔男」の字を、恐る恐る「ミコトノリの詔ですか?」とお聞きした時に「ミコトノリなんてよく知ってるなあ・・」と笑っていただいたことが印象に残っています。
 社屋が役場正面に移ってからの朝のラジオ体操も忘れられません。その体操の後に小さな身体で役場に向かって歩いてこられる姿はまじめで印刷物の入稿期限にうるさい社長さんでした。これも社員のスケジュールをおもんぱかっての厳しさだったのでしょう。
  博物館協力会や慰霊碑を守る会、さらには文化連盟などをとおして40年以上にわたってお付き合いさせていただいた私にとって、昼間の会議や打ち合わせではジョークを飛ばしながらも正論を吐き、イベントなどの打ち上げの夜にはこよなく酒席を愛し、話を好み、気が付いたら既に「沈没」というのが常でした。 印刷や出版物の相談はもちろん、津軽藩士やねぷた、文化連盟などのかかわりで楽しく、愉快に、そして常に深みのある示唆をいただいた大先輩でした。

近年の慰霊祭では副会長として「開・ 閉会の辞」を担当され、三浦さんの発声によって厳かな慰霊祭が執り行われました。そしてその夜には役場前のステー ジの上で三浦さんの「ヤ―ヤ・ド―」の 発声によって斜里ねぷたが出陣していく様が今でも目に焼き付いています。この切っても切れない二つの行事に関わってこられた三浦さんは、コロナ禍が一段落した今年の交流50周年の夏を誰より も楽しみにされていたはずです。 残念でなりませんが心からご冥福をお祈りいたします。

タンネウシ5月号表面



タンネウシ5月号裏面

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