秋田城とチャシコツ岬〜タンネウシコラム4月号

平河内 毅

復元された秋田城の外郭東門

史跡化から2年
ウトロのチャシコツ岬上遺跡(通称:カメ岩)が国史跡に指定されてから、早いもので2年が経ちました。話題となった「オホーツク人、近畿と交流か」、「知床で奈良の銅銭出土」といった新聞の見出しを目にしたのも随分昔に感じます。見出しにあるように、この遺跡は神功開寳という古代の銅銭が発掘されたことで一躍有名になりました。しかし、現在は安全上の課題から年1、2回の見学会でしか立ち入ることのできない幻の遺跡となっており、結果的にその神秘性を増しています。今回はチャシコツ岬上遺跡と関連が深いもう一つの史跡から古代の交流を探ります。

古代城柵、秋田城
チャシコツ崎にオホーツク人が暮らしていた頃、東北地方を中心に日本の地方官庁が置かれていました。そのうちの一つに秋田城があり、軍事・行政の拠点としてだけでなく、北方との交流機関の役割も担っていました。そのため、秋田城に隣接して客館や水洗トイレなどが併設されており、中国大陸からの使者や北海道のエミシ(擦文人)などを歓待するための機能も備えていました。記録によると、エミシが持参する様々な毛皮の需要は非常に高く、出羽(秋田)の庸調(米や布)の全額をエミシとの交易に充てていたようです。その結果、本州の産物や製品が北海道へ持ち込まれることとなり、道央部の擦文文化や道東部のオホーツク文化集団に渡ったと考えられています。

銭貨が示す秋田城交易の盛衰
この他、本州から北海道へ渡ったものの一つに古代銭貨があります。日本では古代に12種類の銭貨が発行されており、北海道では1番目の和同開珎(708年初鋳)から5番目の富壽神寳(818年初鋳)までが発掘されています。また、秋田県域でも神功開寳を除く、1番目から5番目の銭貨が出土しており、北海道の出土傾向と一致しています。これは、733年に秋田城が遷置されて以後、830年の天長地震による混乱、そして、878年に城下の蝦夷の蜂起(元慶の乱)を経て、北海道と秋田の交流が途絶えたことを示しています。
秋田城交易の瓦解と時を同じくして、斜里のオホーツク人も忽然とその姿を消してしまいましたが、1,200年前にチャシコツ岬に届いた1枚の古代銭貨は、秋田と北海道の交流の証として、今も鈍色に輝いています。

タンネウシ4月号(表面)
タンネウシ4月号(裏面)

横山

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